トルコのカッパドキアから車で北に約3時間、首都アンカラから東に約2時間のところにボアズカレという村がある。旧名はボアズキョイ、今でも検索するとこちらの名前表記のほうが多く見られる。
このボアズカレという村、3600年前から存在したヒッタイト帝国の首都が置かれた場所で、およそ100年前に発掘されてから歴史的解明に功績を残す重要なものが多く眠っていたところである。
ペルガモン遺跡やエフェソス遺跡などの他の遺跡と比べると、年代的にもっと古いため、建築物などはほとんど何も残っていない。風景としては少し寂しい場所ではあるが、城壁や建物の礎石とレリーフ、モニュメントなどから当時の痕跡を感じることができる。
時の流れに感動し、当時の繁栄を想うことのできる場所なので、歴史好きであれば訪れて損はない。
ハットゥシャシュ遺跡
ヒッタイト帝国の首都、ハットゥシャシュ(ハットゥシャ)の遺跡。検索するとボアズキョイ遺跡との表記が多いが、ボアズキョイは遺跡のある現代の町名(しかも旧名)なので少し分かりづらい。
ヒッタイト帝国は、もともとこの地にいたハッティ族とロシアからやって来た人が混ざって発展したアナトリア(トルコのアジア部分)初の国である。
ヒッタイト人は黒髪の低身長で筋肉モリモリだったそうだ。確かにイスタンブールの古代東方博物館(古代オリエント博物館)にあったヒッタイト人のレリーフには、筋肉質でガタイの良い男性が彫られている。
※写真は古代東方博物館にて撮影
この風貌は、天は赤い河のほとり読者としては、割と残念な気持ちである。
ハットゥシャシュ遺跡は紀元前1600年代に創られたので、ここの繁栄が始まったのは今から3600年前にも遡る。
この時代にはまだ建物全てを石で造る技術はなかったので、現在残っているのは土台に使っていた礎石のみである。当時はこの礎石の上に日干しレンガを積み重ねて、建物を造っていた。
日干しレンガは管理する人がいなくなれば、歳月とともに溶けていくため、現在は石でできた土台部分のみが残っている状態なわけである。
この写真の奥に見える黄土色の建物は、当時と同じ材料で作った城壁のレプリカ。6.4万個のレンガを使って全体の1%の長さが再現されている。
当時はこのような城壁が6キロほど続いていて、都市を囲んでいた。現在でも、城壁の礎石はいくつか確認できる。
写真の中央より少し右上には、赤茶の大きな壺が見える。穀物や水などを貯めていたのだろうか。数千年の時を経て、こうして残っていることに感動。
石を真っ直ぐ削る?掘り出す?技術も3000年以上前からあった。
こちらの綺麗な丸い穴も3000年以上前のもの。現代技術で開けたかのように綺麗だが、紀元前からすでにあった穴だ。
ヒッタイトでは鉄を巧みに使っていたからこそ、石のようなそれなりに固いもの対して真っ直ぐに掘り出したり穴を開けたりと優れた加工ができたわけだ。
神殿跡と通路。通路はとっても広く大きな石がたくさん使われているが、かなり凸凹している。石を真っ直ぐする技術はあったはずなので、もしかしたら3000年の間に地震や地盤沈下などがあり凸凹してしまったのかもしれない。
この大きな石は、遠くから運んだのではなく、近場から持ってきた。この遺跡の地を見回すと、写真の神殿奥に見えるような岩山がたくさんあり、材料には困らなかったことがわかる。
大神殿跡にある緑の石。エジプトからの贈り物であり、パワーストーンである。
昔はこの石のパワーを感じて、石の上に御供物をしていたそう。2-3世紀以降の神殿には宝石が納められていたが、この頃の宝物といえば食べ物なので神殿には麦が納められていた。このことを考えると、この緑の石は珍しくて何か力が宿っていると考えるのも分かる。
大神殿跡内部では、他にもドアが地面の石を何度も擦った跡なども見ることができる。
ライオン門。いくつかある入り口の中でも有名な門。この写真は、城壁の外側から撮影している。
右のライオンは完全オリジナルだが、左のライオンは体はオリジナル、顔は2010年に作られたものになる。
ライオンの背後にあるひときわ大きい石が斜めに向かっていることから、アーチの門だったことが分かる。
専門家が想像した数千年前当時の様子。数メートル奥までアーチの天井が続いている。
ちなみにトルコの遺跡のほとんどに写真のような看板が立てられているが、専門家が想像で描いた当時の姿が割と必見だったりする。
このライオン門も、白黒写真の如く絶妙に本物っぽく描かれていて面白い。
石も隙間なく積まれていてその技術が分かる。
そして技術と言えば!地味にテンアゲしたのが、あまり知られていないモニュメントにある出入口。
看板上部に描かれている丘は人工的に造られたもの。丘の場所も、山の斜面に創られた都市の頂上付近にあり、ハットゥシャシュのモニュメントとして存在していたことがわかる。
そしてモニュメントの丘にも外へと続く出入口があるのだが、それが長さ70mのトンネルのようになっている。
70mのトンネルが、完璧な状態で残っている。石を積み上げて作ったトンネル。3000年以上前に作られた70mのトンネル。入口から出口まで、完全体。(もしかしたら修復したのかも?)
いや〜胸熱。やっぱアーチかー、アーチだよなー、と。
アーチ型に作ると石のように重いものを積み上げても、負荷が分散して丈夫になる。エジプトのピラミッドが、内部に部屋や通路を持たせても崩れずに現代まで残っているのは、部屋の天井をアーチにしているからだったりする。
3000年以上昔の技術に感服である。
例えば、現代の日本人が最先端の技術をもってトンネルを造ったとしても、3600年後まで残っていることはないだろう。
よくぞ地震などの自然災害に耐えて数千年の時を超えて残っていてくれた。
もちろん、完璧な状態で残っているので、トンネルを通って城壁外に出ることもできる。
トンネルを通って城壁外に出ると放牧中の羊の群れ。羊飼いさんが笑顔で手を振ってくれた。
ちなみに城壁内にも羊は放牧されていて、かつての繁栄も今やのどかな田舎風景だなという感じ。
モニュメントの丘から一望できる城壁内の様子。
ところどころに礎石が見える。右奥の山にも建物跡があるので、やはり大昔とは言え首都だけあって広い。
ハットゥシャシュ遺跡は、個人的にはトンネルと神殿跡が見所だ。
徒歩でも観光できるが4時間くらいかかるらしい。バスは1時間半くらいだが、十分満足できる。
ヤズルカヤ遺跡
ハットゥシャシュ遺跡の近くにある神聖な場所、ヤズルカヤ。ヤズルは描かれたという意味、カヤは岩。3600年前の岩に描かれたレリーフが残る遺跡である。
現在残っているほとんどのレリーフは、3300年前に修復されたもの。
行くまで存在を知らなかった場所だが、自然の造形美(もしかしたら人工的な造形美かも)と人工的なレリーフが神秘的で、トルコの中でも行ってよかった場所TOP10に入る。
この遺跡は聖域。神様に会うための儀式などが行われた。
通路の石は、ハットゥシャシュの神殿付近で使われていたものより随分小さいが、現代でも通用しそうなほど整然と並べられている。通路の端が揃っているところなんかは「おお~」と思ったが、文明が起こって建国したほどの人たちなのだから当たり前にできたのだろうか。
通路を挟んで左右には御供物などを収める建物があったが、ハットゥシャシュ遺跡同様に現在は日干しレンガ部分は溶けてなくなっている。
巨大な礎石は綺麗な四角に切り取られている。
通路に敷き詰められた石は、白、緑、赤、黒と多様。
石の色は中に入っている成分で変わる。白は石灰、緑は銅、赤は鉄、黄は硫黄という具合だ。この石の色については、カッパドキアの奇形岩にも見られる現象だ。
この通路の先には部屋が2つある。
一つ目の部屋。部屋と言っても屋外だ。この部屋の全貌を写真撮影しておらず動画から切り取ったので、よく分からない写真となってしまった。
陰になっていて分かりづらいが、観光用の柵が奥まで続いていることが分かる。この左右正面の岩肌にレリーフが彫ってある。
一番くっきり残っている12人の神様のレリーフ。男性神なので、とんがり帽子とスカート状の衣服を身に着けている。
ん?12人と言われているけど、13人いないか?少し距離が離れている1番先頭の人は王様とかで、神様としてはノーカウントなのかな。。。
3000年以上に及ぶ雨風を受けても尚はっきりと残るレリーフ。
人(神?)が先の丸まった大きな杖と持って、皮をむいたザクロのようなブドウのようなものに乗っている。
このザクロみたいなやつは、子孫繁栄を表しているらしい。日本でもおせち料理には数の子が欠かせないが、あれも粒粒がたくさんあって子孫繁栄を表しているわけなので、同じ考え方だ。
現代トルコでも、1月1日になると休みでも自分のお店に行って入り口にザクロを投げ落として帰る習慣があるらしい。落ちたザクロが割れて中の赤い粒粒が散らばった様子が、お客さんがたくさん来ることを連想するのだろう。
二つ目の部屋へと続く入口。階段を上った先の岩壁の間に人一人通れる狭さの通路があり、奥に部屋がある。
この外観の素敵さにほれぼれする。
二つ目の部屋。こちらも細い通路の両壁にレリーフが並ぶ。
こっちにも12人の神様レリーフがある。
主神テシュプの息子であるシャルマ神に抱かれる実在の王トゥドハリヤ4世。
とんがり帽子のが神様だとして、その左手に抱かれているのが王様だろうか。それとも右手の上に立っているのがそう?
部屋の奥には3つの大きな穴が。
これはお墓で、人が亡くなると動物にその肉を食べさせて残った骨をここに入れたらしい。
【おまけ】クズル・ウルマク
クズル・ウルマクは、クズルは赤、ウルマクは川という意味で、赤い川と呼ばれるトルコで最長の川のこと。
特に赤くは見えない。
古代文明と言えば大河のほとりに生まれると言われているが、ハットゥシャシュ遺跡の近くにこの川は通っていない。ボアズカレの村に本当に細い川だか水路だかが通っていただけである。
ハットゥシャシュは標高1000m以上の位置にあり冬は雪も積もるし、海も近くないし、どうしてここに文明が生まれたのか不思議だ。
とは言え、この川が運んできた赤土を使って作ったであろう赤い大きな壺はハットゥシャシュ遺跡の大神殿跡でも見られた。
写真の左側には、レンガ工場と赤土で造られたレンガが積まれている様子が写っている。
川の周辺の町では、現代でも川の赤土を使ったレンガや壺が作られている。男は壺作り、女は絨毯作り、が伝統的な仕事であり、田舎では現在も同じである。
壺はろくろを足で蹴って回転させて作っている。周辺のレストランに行くと、壺入りケバブを食べることができる。
クズル・ウルマクは、豊富な赤土を運び、3000年以上昔から現代に至るまで、人々の生活を支えた偉大な川となる。ボアズカレにクズル・ウルマクはないが、ヒッタイトの文明に貢献しただろうので、せっかくなので紹介した。
ハットゥシャシュ遺跡とヤズルカヤ遺跡は、礎石と岩肌に描いたレリーフなどのみが残り、他の遺跡と比べると寂しいものだが、遥かな時を超えて当時の面影を伝えてくれる胸熱な場所だった。
カッパドキアとアンカラを行き来することがあれば、ぜひ寄ってみてほしい。